徳川大阪城の石垣を築いた秘密|六甲山東六甲採石場と刻印石の歴史を探る【甲山森林公園】

甲山森林公園の徳川大阪城東六甲採石場

江戸時代初期に大阪城の再築のため使用された石材の採石場跡

大阪城再構築用石材採取跡の道標
このページの情報は2025年1月8日に訪問した当時のものです。

大阪城石垣石丁場跡は、江戸時代初期に大阪城の再築のため使用された石材の採石場跡である。大阪城の石垣はその規模と技術で知られるが、この石材は全国各地から集められ、その中でも特に多くの石が切り出されたのが、現在の兵庫県西宮市甲山周辺の仏性ヶ原エリアだ。

石

甲山周辺を含む六甲山の東麓一帯は良質な花崗岩の産地です。

石丁場では、山の岩を切り出し、表面に加工を施したうえで運搬した。この工程には高度な技術が必要とされ、石には「刻印」と呼ばれる印が刻まれている。これらは石を切り出した大名や職人を示すもので、当時の労働体制や技術の一端をうかがい知ることができる。

積み重なる石

江戸時代には大阪の陣で焼失した大阪城を再築するため、徳川2代将軍秀忠は全国の大名に石垣を築くように命じます。

現在も加工途中の石材や、採石の痕跡が点在しており、江戸時代の建築技術の高さを感じられる貴重な文化遺産となっている。甲山森林公園内の石丁場跡では、自然と歴史が調和する景観の中で、過去の壮大な建築プロジェクトの痕跡を体感できる。

重なる石7個

この命令に従い、全国の大名は各地の山から大阪城の石垣用の石材を切り出し、大阪城まで運びました。

切り出された石

甲山森林公園内の仏性ヶ原から展望台への一帯には「矢」で割られた石材や、長方形に加工された石材、「のみ」で調整された石材などが点在しており、その一部の石材には大名が石を切り出す時に刻んだ「刻印」がある石材(刻印石)も残されています。

岩

刻印を切り出した石材がどの大名のものかを示しています。刻印には大名の家紋や単純な記号などがあります。

積まれた岩

仏性ヶ原から展望台の周辺では□の刻印が刻まれた石材が群材しています。

□の刻印は大阪での石垣では肥前の鍋島家が石垣工場を担当した地区で確認されていることから、甲山森林公園の仏性ヶ原から、展望台1体で鍋島家が石材を切り出していたことがわかっています。

甲山森林公園内には、この時の石切場の跡や大阪城に運ばれることのなかった石材が残されています。

甲山森林公園内には、この時の石切場の跡や大阪城に運ばれることのなかった石材が残されています。

加工された石

□の刻印は大阪での石垣では肥前の鍋島家が石垣工場を担当した地区で確認されていることから、甲山森林公園の仏性ヶ原から、展望台1体で鍋島家が石材を切り出していたことがわかっています。